はごろもランジェリー店主治代(haruyo)の日記

ハンドメイドのリラックスランジェリーと着物と自然と生活

着物大好きharuの覚え書き「着物のたたみ方」

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お譲りいただく着物を見ていると

着物のたたみ方はいくつかあって

 

なるべく跡がつかない様に仕舞うためだったり

柄を守るためだったり

すぐに着れる、着やすい様に

お店で綺麗に見える、など

色々な目的があり工夫がしてあるなぁと思います。

 

私が着物を滅多に着なかった頃たたむ時に

跡を見ながらどうたたんであったか推理しながらたたんだものです。

 

畳み方ってちゃんと習わなくても出来るけど

何のためにそう畳んであるか考えてみると、、

 

また違った視点で見ることが出来たので

着物がもっと好きになりました。

 

今回の動画で紹介している畳み方は

着せる時と仕舞う時の両方が考えられています。

 

ちなみに私なりにアレンジしている所がありますのでご容赦ください。

今回の動画は、過去に収録したものを再編集しています。

 

#着物 #kimono

 

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撮影に使用した着物は

祖母が若いころに着ていたもので

約70年前の晴れ着だと思います。

 

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リラックスブラ、ふんどしパンツ、PDF型紙

この「はごろもショーツ蓮型紙」には

英語版もあります。

 

それと

PDF対応型紙3種類の中の1枚が

「はごろもショーツ蓮型紙 英語版」です。

 

一番多用途な型紙は蓮型紙といえるでしょう☆

 

PDFは型紙や作り方をご自身で

自宅印刷していただく形のご購入方法で

4つのショップで対応しています。

 

6つのショップはこちらからご覧ください。

そして、上4つがPDF販売があります。

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PDF版の注意点は

minneとBASEはアプリからは非対応なこと

 

商品的には

鈴蘭ブラは「レシピのみで型紙なし」

ショーツは「英語版のみで日本語版なし」

ちなみに姫沙羅ブラは型紙ありで日本語版です。

 

ほかの型紙はPDFがありません。

椛、梅、桜、桜姫、桜T、藤、乙女椿

その理由は様々ですが

・枚数がかなり多くなる

・大判型紙で見渡すとわかりやすい

・繊細なサイズ感のもの

 

ある意味、条件をクリアできた型紙がPDFになっていて

カーブのあるふんどしパンツの型紙は

当初はPDFの予定はありませんでした。

 

蓮の英語版は海外対応の為

特別にPDF版が作られたのです。

 

しかも

1語ずつ母国語の方に確認しながら翻訳していただいて編集

ネイティブの方に最終確認していただき

日本語版を基に、翻訳したものを照らし合わせて再編集したものです。

 

とても愛着があります。

すこしでも多くの方に

手に取っていただけたら嬉しいです♡

後ろ姿や透けが気になる季節

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こちらは

はごろもブラ椿と乙女椿の

ブラの紐見本です。

 

手ぬぐいブラ(姫沙羅)や

はごろもブラ藤だと

背中のラインが気になるというご意見

 

また

もっと軽やかにという思いから

出来たブラです。

 

イメージ的には

お部屋着の際に

ノーブラではない状態で

バストトップは隠せる

 

貝殻ビキニみたいな役割です🤭

 

もちろん、お出かけにご着用くださる方も

いらっしゃいます。

 

用途に合わせて使い分けたり

アレンジされるとなお良いですね。

 

本日、写真左上の

(⊥⊥←こんな形)

紐の作り方をお問い合わせいただきました。

 

この形のもととなるのは

アンダーに肩紐が繋ぎ合わせてあるもの。

市販のブラのイメージですね。

 

NOTEで解説していたりします。

note.com

 

繋ぎ合わせる箇所が

少なければ丈夫になるので

私は紐2本で左右を繋げて作りますが

 

肩とアンダーの2本で分けても良いし

アンダーと両肩の3本でも出来ます。

 

ブラパッドも入れられるし

パッドを入れなくても

バストトップが目立たないとのことで

これからの季節に重宝します。

 

アンダーに

胴部分をつけたらキャミソールになるし

面白いですよー♪

 

はごろもブラ椿と

はごろもブラ乙女椿は

姉妹品の様な関係で

 

椿は作り方簡単、大きく作るのも簡単。

乙女椿はバストのふくらみに馴染むので

アウターへの響き方が優しめかな。

 

なんにしても気にしどころというか、、

どれもそれぞれ目的あって

種類がありますので

着用シーンや季節によって

使い分けてもらえたら嬉しいです。

 

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ふんどしパンツと布ナプキン

私は

ふんどしパンツも

布ナプキン

なんの疑いもなく使い始めたから

 

誰に向いているとか

どうしたらいいとかは

正直わからない。

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私が使い続けてるのはなんで?

と聞かれたら

「使い心地が良かったから」

としか言いようがなくて。

 

たまたま合ったんだと思うけど

多分、ジャッジしなかったのも

良かったのかも。

 

頭で考えたら

いくらでも否定出来そうだ☆

 

フィットしない

手間がかかるなどなど。

それで

「今までのままがいい」となる。

 

大半の人が利用している当たり前が

不快感があったから

私には救世主の様だったけど

 

人は

興味のあることしかしないし

必要になったら継続するだけ。

 

それとやっぱり

見聞きした

先人の感想を採用して

自分の思いとしていることもある。

 

一生のうち体験できることは

どれだけ欲張っても厳選が必要だから

誰かの言葉は参考になると思う。

 

だけど

自分の気持ちはどこいったー?

 

誰かから聞いたからとかで、、

自分の身体に聞いてみたかな?

 

痛いとか、苦しいもだけど

嬉しいとか、気持ち良いとか。

身体は饒舌だと思う。

コツコツと、自分がなにより楽しむ。

どこかでみた

誰かのつぶやきに

こんなことが書いてありました。

 

「投稿は自分の厚みを増やすため」

 

いやー

ほんとにそうだと思います。

 

私は、以前の経験で

企業の中で「メルマガ」を

他のスタッフさんとみんな交代で

書いていたことや

 

ポップを作ったり

DM送ったり

電話集客やポスティング

チラシ作りをしていたことを思い出します。

 

営業ってそんなもんだと思って

やってたところもあったけど

「集客」そう思って行動するのって

ものすごいエネルギーを使っていました。

 

数打ちゃ当たる的な

でもそれには

やっぱりノウハウがあって

それは経験を詰んで自分で得るほかに

誰かから学ぶとか

会社でそういうことを

知ることが出来ていて

良かったなぁと思います。

 

「チラシ見て、来ました」

要はきっかけ。

だから数打ちゃ当たるでオッケー。

 

でも

今の仕事はそうじゃないのかもしれないし

数打ちゃ当たるという言葉を言い換えたら

「まず、知ってもらう」になりますから

あってる部分はありますね。

 

そこから先は「人と人」だと

ネットが当たり前になった

今も変わらず思います。

 

今日、近くに住む娘と久しぶりに

2人でゆっくり話す機会があって

色々と話していたら

 

「人に喜んでもらいたい」という

共通の気持ちを持っている私たち。

 

とても良いものだけど

その中に自分も入っているかどうかよね

という話題になりました。

 

自己犠牲の末

誰かに喜んでもらえるならばとすることは

続きませんし

いつか苦痛になるのだから。

 

お商売の集客のため、と思ってやることが

なかなか続かないのは

そこに自分の「喜び」よりも

「努力」が上回ってしまうからなのかも

しれません。

 

私は、このブログの投稿にせよ

Instagramなどでもそうですが

誰かの知りたい情報かどうかよりも

私が嬉しかったり

気持ちよかったり

楽しかったりしたことや

それまでの経緯で

悩んだり困ったりしたことを

書きたくなった時に書いています。

 

近ごろはとにかく

「心の持って行き方次第だなぁ」

要は感じ方次第だと思うので

 

同じことを書いたって

沢山読まれたって

みんな同じ感じ方にはならないことや

 

えー?とびっくりする様な

捉え方もあるのだろうなと

世界の広さを気持ちよく感じています。

 

だからね

投稿の目的や将来性を考えた時

「いっぱい書いたなー」と

ただただ思いましたし

その先はまとめたり加筆訂正は

必要かもしれないけど

これから先ずっと続けるかとか

どんな内容で行きたいかとかは

浮かびませんでした。

 

それでね

これって例えば

英文を写すのをいっぱい書いたのと

同じなんかな?

 

要は中身がない?!

自問自答しました。

 

で、先日のブログにも書いたのですが

本当に素直に

毎日書く、いっぱい書く

とにかく「今」の繰り返し

その時その時の気持ち、気づきが大事。

 

これのどこか中身がないのか、です。

書き写した訳でもないし。

失敗したりもしました。

でも、続けてきた自分を褒めています。

 

ブログというもの自体の「意味」を

一所懸命追求するのではなく

楽しみとしてやる中で

だんだんと出来ることが多くなりましたし

 

実はこれ

私の性質なのかもしれないんです☆

 

お裁縫も、着物のことも

リラックスランジェリーのことも

とにかく興味深く

小さな変化の中で飽きずにずーっとずーっと

続けているから。

 

他にもあります

中には苦手に一度なったけど

克服したこともありました。

 

例えばアイロンがけは、18で結婚した時に

義弟のシャツのアイロンがけをしていました。

下手だと文句を言った義弟に

私がやったんだと義母に言われてから

大嫌いになりましたが

克服しました。

 

また、毎日作るお料理も

元夫に会社で愚痴られ

職場のパートさんが毎日作って夫に渡して

私がお礼を言ったら

「あなたに作ってません」と言われ

泣いて泣いて

作るのが嫌になりました。

これも克服しています。

 

私が人にそんなこと言わないし

ましてや10代の娘にきつく当たるのは

私はしたくないなぁ。。きっと

その方々がしんどかったんだろうなぁと

思いました。

 

あった出来事は変わらない。

相手も変わることはない。

受け止める自分、受け止め方次第だなと

思いました。

 

当時の彼女たちと同じくらいの年齢になって

今、私はアイロンがけもお料理も

存分に楽しめる自分がいて

諦めずに向き合った自分と

感謝や喜びを伝えてくれる家族

「アイロンありがとう」

「うまー」「おいしー」「ごちそうさま」

「また作ってー」「やっぱりこの味」

「安心する」

 

積み重ね。しかも、楽しみながら。

ね、自分の厚みですね、これ。

お腹の厚みとちょっと比例する?

そりゃ困ります。笑

コツコツと続けてきたことが

今沢山実ってるよ、というお話。

 

命と向き合う時間。

人の命は儚い。

 

昨日の弔問では

抱えきれない程

心にダメージを受けた。

 

と、同時に

 

縁の繋がりは

血や文化や価値観、時間、

色々なものを超えていると感じた。

 

とにかくなにより

ありがとう。

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ご遺族様

しばらく話したのちに

ふと思い立ち

畑で育てた野菜を

私たちにと収穫。

 

誰かが亡くなったあと

身近な者はしばらく

ふたつの時間を過ごす様な気がする。

 

故人がいない現実を突きつけられ

悲しみに暮れる日々と

 

思い出の中に確実にいる故人と

今も共存している感覚で

「いつもの日常」

地に足がついた日々を

 

しばらく過ごして

やがて、分離した感覚が

じわりじわりとひとつになっていく。

 

身を裂くような

深い悲しみで

 

心が壊れてしまわないための

ある種の防御策を

人は本能的に知っているのかもしれない。

 

辛いことがあった時

乗り越える力は

 

もうダメだとか

これ以上は無理だとか

思った時に起きる底力なのか。

 

過ぎ去ってみればそうなのかも知らないけど

その時は必死だからわからない。

 

でも

悲しみの真っ只中には

励ましでもなく

義務でもない

 

ただただ共に過ごすなんでもない

時間がいるんだと

幾度か経験したお別れのあと

心から思った。

 

で、やっぱりそれは

寄り添う側にも気づきがあるので

寄り添っているという感覚ではなく

全くのフラットな状態。

 

分かち合う。

 

「ありがとう」という言葉が

何度も何度も浮かぶ。

 

夫とそのことを確認しながら

昨日帰路に着いた。

 

夫は私に亡き母を感じることが

あるのだそう。

 

私が義母と会ったことがなくても

命は繋がっていて

ご縁とは「血」だけでなく

不思議な深さを時々みせられる。

 

弔問と父の一周忌は

命と向き合う時間だった。

締めつけがダメな私が何故着物が着れるのか

締めつけがダメな私。

 

とにかくダメで

それでふんどしパンツや

洋服を作っている。

 

それで、

「着物はなんで大丈夫なの?」と

聞かれたことがある。

 

答えは、、

大丈夫◎

 

着物=締めつける

 

このイメージは

確かによくあるだろうなーと思うし

実際に自分もそう感じたことがあった。

 

美しく着ようとして

きっちりとする為に締めたからと

ゴム製のバンドを使ったからだった。

 

子どもの頃

ばあちゃんに着せて貰った着物も

 

大人になって着た時も

苦しいと感じたことは

あまりなかったのは

着方と小物の使い方のおかげなんだろう。

 

私が習ったのは3K着付

・苦しくない

・着崩れない

・綺麗

 

この3つのポイントは

実はとても難易度が高く

それは追求することだけでなく

着物が好きになることに繋がる。

 

着心地が良いと思えたり

綺麗に着れたら単純に嬉しいから。

 

私は習える様になるまで

とても時間がかかったけど

やり始めてからは

ずっと続いている。

 

毎日着ていたこともあったし

たまにしか着れない時期もあって

今は正装に気持ちが傾いている。

 

正装の時に苦しかった印象があって

着物=苦しい(締め付ける)となった

経緯を沢山聞いたから

そのイメージが払拭され

着たいと言ってもらえる着付けがしたいから。

 

何故苦しかったかと言うと

おそらく

きちっと着せて貰って

美しく、着崩れしにくかったのだと思う。

 

そこに苦しくないが加わると最高。

 

着なれてなければ

着る時の声かけや

直す方法の伝授などがあると

より着やすいと感じられるかも。

 

長時間着用や

長距離移動の時は

比較的着慣れているであろう私でも

着崩れの修正や

体調によって

締め具合を変えたりするのだから。

 

今日は弔問と

義父の一周忌法要なので

色喪服を。

 

長時間着用で、そこそこの移動距離。

 

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朝、用意をしていたら早速

裾をふんまえてしまった。

 

足袋が濡れちゃったし。。

 

そんなこともある。

 

私は、洋服の喪服?

洋装の喪服かな、、は

軽めのものしか持っていない。

 

義父の通夜の時もこの着物を着たし

私はこの方がラクなので。

 

おそらく

自分の腰紐の締め加減

着物や小物の素材や種類にもよるので

そのチョイスも含め

トータルの力加減のバランスで

成り立っている。

 

自分で着ること自体が

日々経験と学びになる。