昨日の帰り
尾道の養老温泉に立ち寄りました。
昭和レトロな感じが
なんとも幸せな空間で
懐かしくて馴染みがあって
嬉しかったです。
「あぁ、お義父さんと来てみたかったなぁ。」
そんな風に思ったのは
夢に出てきてくれたから
その延長だったのかもしれないけど
「もっと一緒に過ごせていたら」と思うのは
他界した人に思う気持ちのNo. 1ですね。
だからこそ
毎日全力で、まっすぐな想い
想いのままに過ごせる様にしていると
見渡してみれば
毎日のやること、大事なことだらけで
はっきりくっきりと
やるべきことが見えやすくなりました。
一見無駄な様に見える
「何もしないで誰かといる、または一人でいる」
という時間の使い方も
豊かだということに気づかされます。
また、実は「何もしない」というのは無くて
必ず「何か」をしていることも
わかってきますね♪
それが当たり前ではないことも。
温泉では
目の前の「思い出たち」と
現実の利用者さんや従業員さんたちの他に
同時進行で
私の大切な時間と空間がありました。
最近伺ったとある20代のお嬢さんの言葉が
印象的でしたので紹介します。
とても大事に育てられたひとり娘で
ご両親、特にお母さまの愛が重たいのだと。
「両親はいつか、自分より先にこの世を去るから
今のうちに慣らしておきたいんです。」
と言って、距離を置いているそうです。
思い出を作るのではなくて
思い出が出来てゆくこと
その人がこの世を去ったあと
それが自分の中でどう作用してゆくかは
今は想像したくもないことなのかもしれません。
ですが今の私は、彼女とは真逆のことをしていて
そうは思えないです。
10代、20代の頃よりずっと
両親に寄り添っています。
でもそれは
ある意味彼女と同じで
20代の頃は寄り添えてはいなかった訳で、、
ましてや
どちらが正解とか不正解というものでも
ないと思います。
ただ
重さのある愛はどこか違和感があり
少し離れたところで
その違和感の正体を探しているのかなと
感じました。
それぞれが持つ現実の捉え方と
必死で送る人生の重みなのではないかなとも
言えます。
お布団でも重いもの軽いものがあって
好みがある様に
愛の重さにも好みがあるかもしれないけれど
もしそこに
引き継いできた「重み」があるのなら
それは自分で、自分の代で
軽やかにしておくといいなと私は思います。
言葉にするならば愛と支配
その違いをわきまえておきたいところです。
命の繋がりに
重いも軽いもありませんが
「思念」は重いと動きが鈍りますから。
ちなみに昭和レトロの雰囲気は軽かったです。
お湯は熱め。
さっぱりしました。
こうやって日々の小さな事で
リセットしていくやり方を
年を重ねながら習得していくのかもしれません。